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めぐりめぐる。

落語や漫才を見るのが好きです。エンタメ系の記事を中心に、幅広く書きたいことを綴るブログです。メールでのお問い合わせはこちら「infomeg2@gmail.com」

値段の決まっていないラーメン屋さん、という話

思い出 暮らし 飲食

僕が勤める会社のすぐ近くに、一軒のラーメン屋さんがある。いや、ラーメン屋さんと呼ぶのは相応しくないかもしれない。もしかしたら定食屋さんなのかもしれないし、喫茶店なのかもしれないし、居酒屋と呼ぶべきなのかもしれない。とにかくこの店を一言で説明することは難しい。なぜなら店にコンセプトと呼ばれるものが全く存在しないからだ。

 

まずラーメンの値段が決まっていない。僕はこの店の少し塩辛いが深みのある味噌スープがベースのラーメンが大好きなのだが、毎回支払うべき料金が変わる。確かに店のメニューには「味噌ラーメン650円」と書いてあるのだが、600円の時や700円、750円の時があり、僕はいつも混乱する。店のマスターに聞いても「いつもうちのラーメンの値段は変わらねえよ」と宣うからだ。季節によって変動する食材の値段の変化ではなく、多分マスターの気分なんだろう。ちなみに消費税が上がった時に同じ質問をしたのだけれど、「値段はいつだって変わらねえよ」と自信満々に言う。僕はその時から諦めてマスターが気分で言う値段を支払うようにしている。

 

連日で店にお伺いするとマスターは喜ぶのだが、二日連続でラーメンを注文すると怪訝そうな顔をする。マスター曰く「毎日ラーメン食べてると身体を壊すぞ」ということらしい。ここラーメン屋じゃないのか。ラーメン屋でラーメンを食べて怒られる店を僕は他に知らない。定食はどうかな、と聞いてくるので僕は頷く。何の定食かは教えてくれない。しばらく待っていると特盛りの生姜焼き定食が出てきた。照りのある甘辛いソースがかかっているたっぷりのお肉と、山盛りのサラダ、山盛りのごはん、僕の好きなラーメンで使っている味噌を使ったスープ。はっきり言ってお相撲さんが食べる量が出てくる。量が多すぎるんじゃないか、と僕が抗議するとマスターは首を横にふる。「痩せてるんだからいっぱい食え」と。いっぱい食えないから痩せているんですよ、という僕の反論は受け付けそうにないので、僕は黙って箸を割って食べ始める。きっと残すと怒るんだろうなと思いながら。

 

マスターは野球が好きだ。小汚い店の壁にはイチローが日本で活躍していた時の写真や新聞の記事が貼られている。客にねだって譲ってもらったというテレビは接続が悪く、たまに映像が映らなかったりする。テレビが映っている時はだいたい野球か、バラエティ番組が流れている。高校野球のシーズンは朝からお店にいて、ランチ時にかけてずっとマスターはテレビを見ている。歓声が聞こえる度に手が止まってしまうマスターを僕はなぜか憎めない。ここにくる客はみんなそうだ。限られた時間しかお昼休みがないのに、料理が出てくるのに時間がかかる店にわざわざ顔を出すのは、なんだか心温まる話だ。

 

店のカウンターにはたくさんの焼酎が並んでいて、全ての瓶に名前が書いてある。いわゆるキープというやつだ。マスターにはたくさん友達がいるんですねと僕が茶化すと、ちょっと嬉しそうな顔をした。薄汚れた白いタオルを頭に巻いて、ゴツゴツした指でカウンターを一生懸命に拭いているマスターの後ろ姿を見るのが僕は好きだ。時々作業がゆっくりになるのは、きっと焼酎に入っている名前を見て昔の馴染みのお客さんでも思い出しているんだろう。

 

昼は僕のようなサラリーマンが集まり、夜は常連さんで店が溢れかえっている。お客さんはだいたい「お任せをください」と言う。僕は最初「ああマスターの器量に任せたほうが毎回美味しいものが食べられるんだろうな」と思っていたのだが、そういうわけではなかった。ラーメン以外のメニューが、基本的に品切れなのだ。唐揚げとか牛串とか餃子とか、まあ居酒屋でよく見かけるようなメニュー表があるんだけど、頼んでもほとんどなかったりする。お客さんがそのやり取りをするのが面倒なので、自然と「お任せ」になったのだという。ちゃんと用意しとけよ。

 

お任せを頼むと「今日は良い刺し身が手に入ったから、刺し身定食作るよ」とか言う。ここラーメン屋じゃないのかよ。そしてだいたいとても美味しい。仕入先を聞いたが答えてくれなかった。「嫁さんにも教えてない」らしい。教えてやれよって思う。たまに嫁さんお店手伝ってるんじゃないか。でも嫁さんも楽しそうに仕事をしているので、まあいいかといつも思う。

 

嫁さんはマスターが作る料理がだいたいいつも二人前であることにちゃんと気づいていて、僕に料理を出す時はいつも「大丈夫?」という顔をする。僕が「だいぶきついと思います」という顔をすると、「持ち帰りもできるからね」とプラスチック容器に笑顔で指を差す。マスターは気づいているのかいないのか、黙々と腕をふるっている。そんな感じだ。

 

マスターは突然店を休みにするので、この古びた店が閉まっているのを見かける度に店が潰れたんじゃないかと心配になる。店に張り紙でもしておけばいいのに、風邪だろうが旅行だろうが何だろうが無言で実行する。店の売上は毎日気にしている癖に、お客さんの気持ちはあまり気にしていないらしい。でもまあ、休みの翌日にはまたお客さんがやってきて「また風邪かい?」なんて言って風邪薬やフルーツを持ってくる光景を見かける。

 

そうやってずっとお客さんに愛される店なんでしょうね、と僕は思いながら今日も店の前を通り過ぎる。